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IARP 瞑想ヨガ Q&A

特別インタビュー
「瞑想者たちへ」 本山 博
 聞き手■佐藤美知子(本部ヨガ教師)

IARPマンスリー139(1985年10月)号より

1985年に、IARPマンスリーにおいて、数回にわたり紹介した″若き瞑想者たち″のシリーズのしめくくりとして、 本山博初代会長に、お話を項きました。 この本山博初代会長のお話は、 若き瞑想者だけでなく全ての瞑想者にとって大変貴重な指針となると思います。 インタビューの前半を転載します。続きはマンスリー139号・140号でお読みください。 (マンスリーバックナンバーを購入ご希望の方は、IARPまでお問合せください)

若い人達が一生懸命に坐っている、それがどうも自己流なんだね

司会 では、まず最初に生徒さんたちやクラスについてのコメントを頂けますでしょうか。

本山初代会長 うん、細かいことはあまり気にならないが、クラスの若い人は皆、朝、行に来て坐るよね(玉光神社早朝ヨガの会)。 そこで思うのはわりあい彼らはばらばらなんだよ。 まとまりがない。なにかもう一つ、霊的にキュッと集合してまとまるような何かが欠けているよう感じが時々するね。 一生懸命は一生懸命なんだけど。

それと、昨日、皆と(上級クラスで)坐っていると、わりあいきれいな感じがして、 きれいな力が動いているような感じが右の後ろの方でするから、終ってから見たら佐藤さんだったから、前よりはずいぶんというか、 ある程度きれいになって、澄んできたんだなと思った。 前より心が落ち着いて、きれいになってきたように思う。それだけ霊的な成長をして、霊的な意味で大人になりつつあると思うんだよ。

佐藤先生 なんだか今日は、お叱りを受けるつもりで(笑)。

初代会長 べつに怒ることはないよ(笑)。ただ、若い人達の一生懸命に坐っている、 それがどうも自己流なんだね。どうもやはり、自分があって坐っているから、自分がどこかに何かを求めて、 何かになろうと思って坐っている空気が多い。ただ坐るのではなくてね、どうも坐っている自分を捨てきれないから、 皆の中で坐っていると、それが強い時には全体の統一を妨げるような、あれは具合が悪い。 ただ、坐行の終いには皆に力を送ってまとめるけど。

佐藤先生 それで質問なのですが、今、クラスはだいたい三つのタイプに分れるのです。

まず第一に、朝、(玉光神社で)坐っています若い人達は、ともかくバイトでもいいから定職を持たずに一生懸命坐りたい、 という自由な時間が使える人達なんですね。 だからまあ、一生懸命何か「自分」が先行するんでしょうけれども。

次に、日曜クラスのようなクラスは、定職を持って、 一生懸命に坐りたいけども、仕事があってなかなか思うようにいかないというクラス。

三番目に万障繰り合わせて都合つけて来ようという家庭の主婦や自由業の人達、この三つのタイプなんです。

一番目の人達は、私が滝行したりすると、一生懸命ついてくる。 一生懸命やる人というのは、どうしてもそこでなにか自分というものに落ちて、なかなか個人の個性みたいなものが抜けない。 それを私が指摘すると、反発で返ってきたりする。まだまだ私も目が覚めてなかったからでしょうけれども。

三番目のような現実に仕事を持っている人達は、現実の中でよく社会の組繊というもののそういう常識的な何かがわかるせいか、 わりにこちらの言葉も入りやすい。

それから三番目の中では、定年を過ぎてなさる方がとても多いのです、男の方で。 昨日の上級クラスにも何人か参加していらっしゃいましたけれども、そういう方達には、本当はこうあるべきであるとか、こうだという、 十把ひとからげの指導じゃない、それぞれの指導方法というのがやはりあるんじゃないかと思いますけれども。 その若い人達の傾向は私も感じておりました。

初代会長 一番目の人達のように一生懸命な時というのは、だれでも「する」ことに落ちる場合が多いわね。 だから一生懸命やって、落ちるくらい一生懸命でないと、なかなかモノにはならんけど、落ちているのがだんだんわかってきて、 それに気付いてもっと自由に坐らないと、何か求めて坐ったのではだめだね。 固くなりすぎて、あまり一心になりすぎて、いわゆる行に落ちた状態で坐ったのではだめだということにだんだん気が付いてくると、 そういうのは案外モノになるからね。

そういう意味じゃ、一緒に坐ってほぐしてやって、時がくるのを待つよりしようがないと思うんだけど。そうしたら成長するかもしれない。 そうなったらまた教える方に加えてもいいね。よくできる人はね。

サラリーマンや主婦の人たちは、超作を心がける

司会 仕事を持ちながらやる人達はいかがでしょうか。

初代会長 サラリーマンや主婦の人達は、やはり超作が一番いいね。 一日のうちであれもこれもといってもなかなかむずかしいから、たとえば自分が一番好きなことに熱中して、熱中するけれども、 その結果がどうなろうとそれにとらわれないような心を、まず養うことだね。

結果にとらわれていると、どうしても「する」ことに落ちて、結果を求めている自分が「する」ことになるから、やはり自分がなくならない。 一つなんでもいいから、自分が得意とすること、これなら熱中できるというようなものをして、その結果を神様にお任せして、 どういう結果が出ても、それに執われないというふうな心を養ってゆけば、自然に心がもっと自由になるからね。

それから感情のコントロールというのは、非常にむずかしいから、怒りやすい人は、怒ったら、 怒っている状態の自分を突き放してみる練習をするといいね。

それから愛情に落ちやすい人ならば、またその愛情に落ちている自分を突き放して見られるような練習をする。

つまり怒ったりわめいたりする、そういう性格ならば、怒ったら怒ったでいいから、それを抑制しないで、 怒ったままの状態の自分を離れて見られるように練習をしたら、だんだん感情のコントロールがうまくできるようになる。

そうしたら、やはりそういう怒る自分からだんだん離れて、そういうものを突き放してとらえられるようになるからね。

佐藤先生 それじゃ、お勤めの人は会社の中のことでもそのような姿勢で...

初代会長 うん、対人関係もいろいろあるだろうから、対人関係で特にいやな人、いろいろあると思うが、 自分ができる範囲内で感情のコントロールをするようにする。 好き嫌いの激しい場合には、その好き嫌いの中から離れられるように、あるいは愛情の問題で、それにはまりこんでしまうようならば、 それから離れて一日中ずっとはむずかしいから、一日に一つの事柄について一回でも二回でもいいから、 それから離れて見られるような練習をしたらいい。 そうしたら心が開けてくる。それができるようになると瞑想をするのと同じような効果があるからね、瞑想しやすくなる。

やはり行法だけじゃだめだ。信仰をもたなければ

佐藤先生 定年の方たちですが、若いうちはなかなかできなかった。 時間もないし、働くことに夢中だったけれども、今ある程度の年齢になって時間ができて、 一生のこととしてやってゆきたいという方がずいぶん最近多いのです。

初代会長 そういう人はやはり健康法を-年配の人が多いだろうから-経絡体操とかそういう健康法をして身体のエネルギーのバランスをとって、 その上で呼吸法をよくさせたらいい、そういう人には。 それで、瞑想を-生懸命に、チャクラタイプのどのタイプかに応じて瞑想させたらいいんじゃないかな。 あとは、なにも思うことはないから、案外しやすいと思う。

やはり呼吸法や体操、それから最初に習うクンダリーニを上にあげる、ムーラダーラ、アジナの方法、そういうのが大事じゃないかな、そういう人は。

佐藤先生 はい。また、そういう方達は、本当に生活も落ち着いているし、いろいろな常識的なことにもちゃんとしてますから、 通ってきて頂きたいのですが、ふっとある程度、なにかわかるところがあると、まあこんなもんなんだろう、世の中というものは、 というふうにやめてしまうんですね。人間の限界を知っているせいか。 そういう人達こそ本当にこの世を大往生する日まで続けて頂きたいのですけれどもね。

初代会長 それはやはり、行法だけじゃだめだ。信仰を持たなければ。 やはりクラスで教えているのが行法だけだったら、続かないよ。習ったら、それでお終いになっちゃう。技術だけだからね。

そういう行法を習うのは、そういう小さな人間としての自分を捨てて、 その上で神様とのつながりができるようにということで習っている訳だからね。 そしてそれが宗教だから、神様とつながっていつも自分の行動、日常の生活、すべて行なうというか...

佐藤先生 先生が昨日(上級クラスで)お話しされた「究極的実在と感知されたものへの、 人間の全存在の全体的応答」(「宗教経験の特徴を定義するための基準」の一項目)のことでしょうか。

初代会長 うん、人間にはいろいろな文化活動や社会活動があるでしょう。 社会活動の場合は、例えば、会社でその人がコンピュータの専門家ならば、コンピュータのことだけを一生懸命していれば、 そこでは間に合うわけですね。 会社での生活というと、コンピュータに関する自分の機能というか、技能を磨いて、それで仕事をすればすむわけだね。 文化活動の場合は、例えば文学家ならば文学だけ音楽家なら音楽だけ、要するに芸術活動をすればすむわけでしょう。

ところが宗教というのはそういうものではなくて、寝たり、起きたり食べたり考えたり、会社へ行ってその会社の仕事をしていたり、 何をしていてもあらゆることに、あらゆる場面で神様とのつながりで生きるというか、何をしていても、どういうことをやっていても、 神様とのつながりでいつも自分の存在の全部を神様の方へ向けて生きるということが宗教だから、 何かの仕事のようにある人間の能力とか性格とかの部分だけで対応していくような活動ではないというわけだ。

その基本になるのはつまり、神様とのつながりにおいて、すべて神様に依って頂いているということがわかれば、 他の人に対して愛情も持てるし、またそれから自分も他の人も同じように扱えるようにもしなったら、 つまりそういう気持が少しでもできてきて、自分だけ可愛がるのではなくて、 相手も自分も同じ神様からつくられた人間で、お互いに依存し合って初めて生きられるのだということがわかるようになったら、 心がもっと自由になって自分にとらわれないから、物をありのままに見られるようになると思うんだね。

そうすれば、相手が、今何を求めているかに応じて、相手に対して知恵と愛とを与えることができる。 その人を支える行動もできるようになる。知恵と愛と行為というのが、やはり自然に備わるようになると思う。

そこで自然に調和ができてくる。 だから、そういう人達こそやはり行をして、自分から自由になって、 自分やら人やらが見られて、愛をもって人に接して、勇気をもって、そして知恵があれば、 そしてさらに神様が人間や世界をこういう形で造られて、自然はこういうふうに動いているのだということが本当にわかったら、 当然そこで何かをしようという勇気と行為が生まれてくるね。

そういうふうになるのは、やはり行法だけではだめなんだ。 行をした一番最後に、神様の方へ自分を向けて任せる、そういうふうにして神様に絶対に服従するというか、 そういう行の態度とか信仰ができてこないと、やはり長続きしない。

だからクラスには、自分の利益を求めて来る人が多いからね、初めは。行の方法だけを習ってある程度健康になったり、 頭がよくなったり、いろいろなことができるようになって、それで終わりとしていたら、 それではやはり霊的な成長や人間の成長は止まってしまう。

そこで、神様の方へ心を向けて神様とのつながりができたら、どんなにすばらしい心やら能力やら健康やらが得られるかということを、 皆にだんだん教えたらいい。宗教を持つように自覚を起こさせることが、大事じゃないかな、自由業とか退職者というのは。

佐藤先生 はい、やはり私が上がらなきゃだめなんですね。

初代会長 うん、上がらなくたって自分だって神様の方へ向いて一生懸命にやれば、自然に皆がそれに従うようになるよ。

だからわかる時まで待たないといけないと思う

佐藤先生 はい。それで、体験として、本当に向いているつもりだったのが、本当に勘違いというものがあるんですね。 まだまだ至らないことに気がつきました。でも、勘違いをしている間には、同じような生徒の勘違いを指摘してもわからないんですね。

初代会長 そうだね。だから、わかる時まで待たないといけないと思う。

うちの子供達を見ていると、こうこうお祈りをしなければいけないとかどうこう周りは言わないけど、私共が毎日毎日お祈りをするわね。 その時に、「皆、お祈りをするよ」と言って呼んでお祈りをするわけだね。 そうすると、なにも強制しなくても、子供たちは、やはり神様がいらっしゃることやら、 人間が生きているのはやはり神様の御力によって生きているのだなということを、子供の時からなんとなく体得しているんだね。

だから教えることはないんだ。指導者がいつの場合でも、皆と行をするときに神様の方へ向いてよくちゃんとお祈り申しあげて、 こうこうこういうふうにお祈り申し上げているというふうに、一応皆に言って、 自分がいつもそのように必ず神様の方へ向いてきちんとお祈りをして信仰が続いていることが皆にもわかったら、 皆、自然にそうなると思うんだけどね。

佐藤先生 はい、本当にがんばらなきゃいけないですね。

初代会長 うん、それができてないと、皆がやっぱり信仰を持てないね、ついて来る人が行法で終っちゃう。

佐藤先生 やっぱり、人の姿は自分の鏡なら、本当に参っちゃいます。