勝木 元也

島園 進

ホアン・マシア

村上 和雄

本山 博

第27回 IARP年次大会講 師 インタビュー(IARPマンスリーより)

勝木 元也先生

 生きものの理を極め、宇宙普遍の理に達する

地球上には千何百万種類という非常にたくさんの多種多様な生きものがいるわけですね。ところが、よくよく見てみると同じ構造をしているということに気がつきます。少しずつその共通性を探っていくと、生きていることのメカニズムには普遍的な原理がある、ということがわかってきました。

私が学生だった六十年代の半ばに、分子生物学といわれる学問がその普遍性のメカニズムを追求する方法論として出てきました。それがどんどん積み重なって、すべての地球上の生きものは遺伝子という、あるいはゲノムという言葉で語られるような、たった一つの物質によって支配されていることがわかってきました。すなわち、地球上の生きものは全く同じ物理化学的性質のもので支配されている。にもかかわらず、われわれが見ている世界は非常に多様である。この多様なものは何によっているのか。それこそ遺伝子の情報によっているのだ、ということが近頃わかってきたわけですね。 

私の研究していることは分子生物学というものなのです。分子生物学というのは一言で言えば、生物現象のあらゆる側面を物質との関係で説明していこうというものです。ヒトもまた生きものですから、自らをよく理解するときの唯物的な理解と言った方がいいかもしれませんね。『大学』という書物の中に「知るに至るは物に至るにあり」とあるのですけれども、知識を得るということは物そのものを理解することである。一つの生きものを徹底して知ることは、ヒトを知ることであり、それはやがて、宇宙を知ることなのです。

 「DNAの二重らせん」の講演が選択を変える

 私の父は九州大学の内科の教授で臨床の医者でしたが、私は昔から生きものがあまり好きでなく、血を見るのが怖くて注射も嫌いでした。今も健康診断はしないというくらい徹底しています。

私は父の転勤もあって、小・中学校を何度か変わりました。それで転校するたびに、そこでの理科の授業は天体、天体で、私はたまたま生物を一回も習ったことがありませんでした。だから本当に星が好きだったのです。それで高校に入ったときにも生物学を選ばず、化学、物理、地学を選択して、生物学は本当に何も知らなかった。そして私は天文をやるにしても数学が非常に好きで、自分で問題を作って解くことが大好きでした。

私の伯父(母の兄)は、東大の航空に行っていて戦争で亡くなったのですが、私はその伯父に非常によく似ているのだと言われていました。そういうことも何か影響したのでしょうね。東大の理科一類に進学したのです。それで駒場寮に入って、自分で勉強するのが好きだったから、昼間は授業にあまり出ずに夜中に星を見るという生活を送っていました。その年の一一月、東大の大学祭である駒場祭がありましてね。その時は駒場寮が開かれて他の大学の学生など、みんな来るわけです。朝早くから、わーっと来て、もう眠ってはおれないから、うたた寝しようと思って講演会に行ったのです。そこで行われた講演会が、江上不二夫先生の「遺伝暗号」と、今堀和友先生の「DNAの二重らせん」でした。それは、一九五三年にワトソンが「ネイチャー」に発表して、多分私が入学したころにノーベル賞をとったのですが、その劇的な説明でした。

すなわち、生きもの全てにDNAがあって、そこに書かれた遺伝暗号によって幾種類ものタンパク質が作られる。その遺伝暗号というのは、たった四種類の文字で書かれている。そうすると、こんな複雑な体を構成し、いろいろな動きをするのに元はといえばたった四文字、タンパク質はたくさんの種類があるのに、それを実際に作る材料であるアミノ酸の種類はたった二十種類。その組み合わせだけでこれだけのことができるのだと、見事にお話しになったのです。私は生物学をまったく知らないから却ってよかったわけで、これはもう完全に数学だと思ったのですね。こんなにすごいことが極めて単純なルールによってできあがっているらしい。これははたして本当だろうか。生物に一切興味のない天文少年が、生きものが大好きな生物少年とは全然違う感激の仕方をして、分子生物学というのは本当に面白いと思った。それで理科一類をやめて、一年間留年して生物学を一生懸命勉強して、生物化学科に進学したのです。

考えてみると、私は幸いなことに、今や古典となっている原理的な法則が、学生の時に次々と発表されて、大学院を出るころには、いわゆる遺伝子工学が台頭して遺伝子を操作できるようになった、さらに私が助手になり助教授ぐらいになったときに今度は卵子を操作できる、つまり個体まで操作することが可能になった。そして教授になったら、核を移植できるというように、分子生物学的な手段が、しかも革命的な手段が次々に進歩している中に携わることができたのです。

抽象的な概念である「生命」

生命科学とよく言われますけれども、私たちのような生物学者は、私が特にそうなのかもしれませんが、「生命科学」という言葉に違和感を持つのです。もっと言うと「生命」という言葉に非常に違和感を持つのです。

「生命」を広辞苑でひきますと、「生物が生物として存在し得るゆえんの本源的属性として、栄養摂取・感覚・運動・生長・増殖のような生活現象から抽象される一般概念。いのち。」とありますが、本質的な属性と書かれてもね何のことかわからないでしょう。この抽象的な概念である「生命」という言葉は、ものを語るときに注意しないとどうにでも使える言葉になってしまうのです。 

それともうひとつには、生きものには何か特別の「生気」があるとする、バイタリズム(生気論)が現代までずっとあるのです。しかし、パスツールが「生きものは生きものからしか生まれてこない」という言い方をしたときに、その概念は「生命」ではないのですよ。むしろ物質実態としての生きものというものがあって、あくまで生命ではなく、生きものなんですね。 

つまり、生きているものというのは、最小体である細胞を持っていて、それが環境との相互作用において外界といろいろなやりとりをしながら、ある連続的なプロセスを経ながら形を保っている状態のことですから、そこに付与されているのが何か「生命」というようなものではなくて、物質それ自身なんですね。

物質それ自身の動き方というのが非常に複雑に見えたり、われわれが直感的によく理解できないということがあるものだから、直感的に理解するために、その複雑さを一緒くたにして「生命」と言ってしまえば理解した気になれるから、そういうふうに言うのだろうと思うんですね。ただ困るのは、実態として証明されないプロセスの段階で、うっかり「生命」という言葉を使ってしまうと実態を見つけようという努力もなくなるし、明晰に分かろうという努力もなくなりますから、まさにそこは科学ではなくなりますからね。生命倫理が、いろいろなところで言われているので「生命」という言葉を私ももちろん使いますが、批判しながら使うということですね。

自由な認識がものの見方を豊かにする

世界を見るわれわれの科学的な認識はどのような前提から見てもいいのですよ。たとえば、太陽が回っているとみてもいいし、地球が回っているとみてもいい。けれども、地球が回っているということによって開かれた自由な説明体系というものが、今日のサイエンスを非常に豊かなものにしたように、生きものに対しても豊かにするだろうと思うのです。それは何かというと、多様な表現型を持つ生きものの内部の構造を知れば知るほど、実は遺伝子という同じ原理で説明できる可能性が出てくる。そういう生きもの観というものが、おそらくいろいろなところでわれわれの認識を豊かにしてくれるということですね。

そして、その使い方によっては良くなりもし、悪くなりもするわけですよね。ですからそれはやはり知恵を出して取り組まなければいけない。われわれがしているのは、ものの見方を豊かにすることであって、そのメカニズムについてはまだほんのわずかしかわかっていない、現代の非常に貧しい知識の下で何かを変えてやろうとか、そういう話とは全然違うことだ、と私は思っているのですね。

 人の際限のない欲望を引き出す現代医療

今問題にされているのは、生命倫理というより、むしろ医療倫理だと思うのです。

医療倫理の根本は「信頼」だと思いますが、それは何なのかということです。まず、医療とは何かということを論じなくてはいけない。今、医療と称する行為を使って、人の際限のない欲望に応える何かをし始めているように思います。

個人の際限のない欲望が蔓延したときにどういうことになるか、その中で商業主義的な欲望の限りない開発という、例えば体外受精をはじめとした不妊治療がありますし、クローン人間もそうですけれども、商売すべきでないものに対して商売をしているような気が私には致します。

倫理は何かによって演繹されるものではおそらくなくて、私の感覚では、最初にあるもの、多分個々人にあるもので、物事の構造中に倫理というものはあると思います。よく言われることですが、母親はどんな子供でも最後までかばうわけですね。動物を見れば一番よくわかりますね。自分が獲物になっても子供たちを助けようとする。それは教えられたことでもなく、学習したことでもなく、われわれが子孫を残し伝えていくために、生まれつきの性質として私たちの中に組み込まれていることだと思います。 

人の尊厳を静かに落ち着いて問う

人のいのちの始まりは何だと問われると、それは受精の瞬間であると分子生物学者は考えています。もちろんそこに魂が入るというのではなくて、プログラムが始まるのだという話ですね。しかし人の始まりはどこからかとか、それを人と見るか見ないかとかいう議論は全く無益だと思います。

なぜなら、一個の細胞が分裂していきながら個体になるわけですね。それは本当に連続したプログラムであって、これはとても大事な細胞、これは大事でない細胞とは分けられない。その一部が病気になったからその一部を取り出して他のと入れ替えることはできない。なぜならばそれはひとつの細胞から生まれてきて、自分自身の時刻を持っている。その時刻を別の所で作ってここですでに先行している時刻に合わせるなんていうことはできませんよ。様々な工夫がこれからなされて、できるかもしれませんが、その時は、見方を変えなくてはなりません。それはひとつの連続した細胞の増殖分化、発達老化、老化もこれは生理現象ですからね、死ぬこともこれは生理現象、人間は死ななければいけません。そういうプロセスであってどこをとってもまさにそれは人なのですね。そういう状態があるだけなのです。

つまり、いのちの始まりなんてない、生きているという状態があるだけ。現代医療の最も間違っているのは、いのちの始まりを決めたり、死の定義を外から決めようとすることなのだと私は思います。

われわれの普通の死生観、すなわち、われわれが生まれて死ぬ、そこに何ものも介在しないし、他の人の目からそれを何か決定されるべきものはないと思います。生と死、それこそまさに人間の尊厳だと私は思っていますから。

今なされていることは、正しいか正しくないかではなくて、愚かか知恵あることか、ということに考えを変えないと、決して話が生産的にはなりません。こちらはこう主張してあちらはこう主張してついには戦争になってしまう。私は非常に愚かしいことを議論していると思っているわけです、ずっと。

人の尊厳と医療倫理の限界について、静かに、落ち着いた議論が必要だと思うのです。

(了)


-講師インタビュー(村上 和雄先生)-


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