大会講演者インタビュー

小田 晋 先生

(中略)

 クオリティ・オブ・ライフ、さらには「死」を考えるとき

 その魂のことを別に表現するとスピリチュアリティというのでしょうから、スピリチュアリティの癒しというのはスピリチュアルに人間が幸福に生きるということ、そしてさらに死ぬためにということなのですね。

 人間は、スピリチュアルな存在であると自分を考えるから、安心して死ぬことができるということがあるわけです。ただもう人間が物理的な存在だと思ってしまえば死ねばお終いです。本山博先生は昔から、「人間は物理的な存在だけではない」と言われているわけで、皆さんにとっては少しも不思議なことではないのですね。

 そして、WHOやWPA(世界精神病学協会ーWHOの諮問機関)が、それまでの心身二元論、すなわち、われわれは精神的な問題ではなく肉体的な問題を扱うのだと言っていた医師や公衆衛生学者が、本当は、肉体的な面からも、精神的な面からも取り組んでいかなければ、全人的な医療はできないのだ、というふうに考えついてきたということなのですね。

 最近、老人の介護プランなどを立てるときに、少しでも長く、ただ生きているだけではなく、生きているからにはできるだけ動けばいいし、人の役に立てればいいし、自分も楽しむことができる、そういうことが考慮されます。それからもうひとつには、自分の現在の状況を受け止めることができる、正しく受け止めることができる、それが場合によっては苦悩を堪え忍ぶことができる、だんだん他人のために役立つ、社会的労働ができるようだったらその方がいいのでしょうけれども、それぞれどの段階で実現されているかということでクオリティ・オブ・ライフが、同じ寝たきりであっても、自分の状況をどう意味づけ、どう認知し、今でもどう生きているかによってクオリティ・オブ・ライフ(生活の質)は違うはずですね。

 そのことを考えるのに霊性ということがあって、霊性というのがここに入ってきたら、「死」にしてもその死をどう受け止めるか、死後の世界をどう考えているかということによって、クオリティ・オブ・ライフは違ってくるでしょう。クオリティ・オブ・ライフの意味がより実質的になってくる。

 もちろんスピリチュアリティについての議論は実際は今言ったように、WHOの中で発展途上国の票数が多くなった、それからさらにヒーリングのシェアを占める地区の中で多くの人間が尊重されるようになってきた、ヒーラー(民間治療師)がアメリカの精神病院でかなりシェアを占め、精神分析家を追い込んだ、そういうのが背景にあるのです。しかし、そういう側面が堕落したら、危険なオカルト集団になってしまいかねない。(中略)

萩生田 千津子 先生

(中略)
 水上勉に導かれて  けれども、文学座在籍中にご縁をいただいた水上勉先生が私の病院を訪ねてくださった時「先生、私もう女優をできなくなってしまいました」と、これだけは絶対誰にも言うまいと思っていた一番言いたくて、言ってはいけない言葉を口にしてしまったのです。
 すると、先生が私の動かない手を握りしめて、おっしゃったので
す。「何言うてんのや、飛んだりはねたりだけが女優やないやろ。世の中には、いらんものはひとつもない。人間かて同じや。みんな何かするためにこの世に命をもろてんのや。おまえさんかてもう一度もろた命やないか、その命つこうてみい、命使うと書いて使命いうのやぞ。
 おまえさんにしかできないことがあるやろう。失うたものを考えるな、残されたものを生かせ。おまえさんには声が残っているやないか、語れ!」と。  その時は肺活量も三分の一に減っって、息つくだけで精いっぱいでした。どうやってあの舞台の上で語りをやるのだろう、「私にできるでしょうか」と言ったら、「そんなもんやってみな分からんやないか、やりもせんで言うんやない。」そうだ、やってもいないくせに何言ってるんだ、と自分の弱気を悔いたのです。そしてそのことをなぜ先生が勧めてくださったか、それは、生まれついてのハンディを持つお嬢様を持つ親心だったのですね。  そして、そのお嬢様にも励まされました。
 「萩生田さん、車椅子は私たちの足でしょ。白い杖はその人の目だし、手話はその人の言葉だし、補聴器はその人の耳だし、近眼だから老眼だから眼鏡をかけている。みんな不足なもの不自由なものをそういうもので補っているだけじゃない。眼鏡をかけた女優がいるのよ。だったら車椅子に乗っている女優がいたっていいじゃない。」と。車椅子に乗ってしまうと自分はもう女優ができないと思っていたけれども、ああそうかメガネと同じように考えればよかったんだ、この車椅子に乗った女優としてのスタートを切ってみよう。
 そして、水上先生の文楽人形一座「竹座」の旗揚げ公演に参加させていただくことになったのです。一時間五十分の一人語り、七つの声色を使い分けて、一週間九ステージ「越前竹人形」という水上勉作・演出の舞台の幕開け、五八年の十月四日、事故からちょうど一年二カ月後のことでした。
 それは壮絶な戦いの中で練習が繰り広げられたのですが、あんまり私がひどい状態だったので、次の地方公演は別の役者さんで行ってしまったのです。それがショックで、よし、連れて行っていただけるように頑張ってみようと、そして五年後、水上先生のご郷里の福井県の大飯郡大飯町という処に先生の二十五年来の悲願だった車いす劇場が、先生の手で作られました。「そのこけら落しでおまえ語れ」って言われたときはやったと思いました。数ある俳優さんや女優さんの中で、「本当に私でいいんでしょうか」って言ったら、先生はずっと原発反対運動していらっしゃるのですが、「お前さんでなきゃいかんのや。原発の村でな、蝋燭の明かりで芝居するところに意味があるのや。そして車いすに乗ったお前がやるところに、車いす劇場の意味があるのや」と言われて、本当にやっとこれで先生に認めていただけた、やっと社会参加ができているかな、その参加が人間賛歌に変わった感動的な先生との仕事の再会だったのです。
 舞台は一週間九ステージ、点滴と流動食だけでやり終えた千秋楽の朝、私は誰のためにこれを今日までやり続けてきたんだろうと思ったとき、誰のためでもない、私自身のためだったのだということに気づかされました。
 だから、誰かの為になんておこがましい、そうじゃない、まず自分のために生きて、自分が生きているということを確かめられたら、それがひいては子供たちや夫のためになったり、家族そして自分を応援してくれた人たちのためになるのだということに気づいたのです。まず私が明るく元気に生きないで、自分が頑張れないでなぜ子供に頑張れと言えるのか、十年離れて子供と過ごしましたから、子供に対して何ができるのかといったらとにかく明るく元気に生きることしかないのですね。そして回りに対するこれが恩返しだと。

 私は宇宙の摂理の中で動いているとずっと昔から、けがをする前から思っていましたから、偶然はない、常に必然の連続だと思っているのです。宇宙の本当に緻密な、これはもう全部計算されたものだと思うのです。事故もそういう必然の中で起きたものだと思うのです。  そして宇宙の歴史からすれば、高々百年もないこの時間と空間を私は与えられて、そしてその中で自分という存在を見つけていかなければならないのだと思うのです。

 そして、事故に遭い、車イス女優として語りの世界に入ったのは、私自身に、自分が自分であることを証明するために、私に与えられた使命だったのかもしれない。その千秋楽の朝に初めて、ああ生きていてよかったと心の底から思ったのです。その日から私の本当の意味での車椅子からの出発となったように思うのです。
 私の中で自分をまず信じてみること、自分を信じないで人なんて信じられないし、自分を愛さないで人を愛せないし、自分を大切にしないで何で人を大切にできるのか、まず自分からの出発なのですね。自分への厳しさはもちろんだけれども、同時にいたわりと感謝と優しさを自分へまず向けないと、人には優しくなれないなぁって今思っているのです。
(中略)


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